焦燥感とノイズ。

私的メモ帳。

色々と終えて


明日から学校です。
日常に戻れるのかなぁまったくわからない。

色々な出来事がばーっとありすぎて頭の中がいまだにまとまらない。 お葬式、告別式と終えた。
色々どたばたとしてしまった。

おじいちゃんと対面した時は、もう嘘のようにしか思えなかった。
去年の夏休みにおばあちゃんの家に行ったときは元気だったのに、
鼻に綿をつめられ、ずっと寝ている。
顔はまったく青白くない。生きているかのようだった。

顔を触らせてもらったときに泣いてしまった。
生きているかのようなのに、とても冷たかった。
泣いてしまったのは、自分にとって受け入れられなかったのではないかと思う。

そこから納棺→お通夜→告別式→火葬とあっという間。
命ってこんなに儚いものなのか、と。

いまだにおばあちゃんの家へ行けば、
あのはにかむ笑顔をもう一回見れるのではないか、
写真を見るたびにそう思ってしまう自分がいる。

2014/10/26 追記
 たまにおじいちゃんの事を思い出したりする。もう一年半以上経っている。荷物送るね、とおばあちゃんから昨日の夜に電話があった。本当に、有り難い。そうそう、夏休みにおばあちゃんの家に行くと仏壇(であってる?)がある。いつもおじいちゃんの座っていた所はおじの席になっていたり、犬の特等席になっていたり。そんな些細なことからおじいちゃんがいないことを実感しては、少しさびしくなるし、感傷に浸る。自分が一方的によく見ているブログで「もし自分が死んでも、同級生たちがツイッターで思い出を語ってそれをお気に入りにしたりリツイートしたり、次の日には友人とご飯の写真が並ぶようなのは嫌」と書かれていた。案外そんなもんなのかもしれない。ただ、勝手に思い出しては少し寂しくなったり、心に少しだけ穴を開けては感傷に浸っているだけなのかなと思う。自分が死んだら、なんてよく考えたりするけど、その後、自分に関係している人がどう思うかなんてあんまり考えたこともなかった、というか死ぬこともないだろうからそこまで考えてないだけだとは思う。この記事読んでその日のことを少し思い出したので書き殴ってみる。
 おじいちゃんの葬式があった日、双子の兄と夜に散歩に出た。小学生の頃は毎年夏休みに行き、近くのお肉屋で甘い美味しいコロッケを食べたり、プールに連れて行ってもらったり、少し丘になっている公園に行ったり。その最後の少し丘になっている公園に行った。父が後から来たか、父のいるところに行ったかは忘れてしまったが、その丘の上で父親は寝そべって空を眺めていた。冷たい空気がよく染み、星がよく見える夜だった。星を見ると自分のちっぽけさを感じる、と父親から聞いた。大学受験だっけ、悩んでいる時だったっけ、覚えてないけど、そういう時は気分転換に星を見てはその見えるものから宇宙の大きさを感じて、その中で過ごしている自分の悩みなんて物凄くちっぽけでどうでもよくなる、みたいな話。その話は昔からよく聞いていたような気がする。そのまましばらくぼーっとしては物思いにふけって、その後プールがあった場所へ。昔にいったプールはもう埋め立てられてしまい、少し草の生えた空き地となっている。そこのベンチに座って、なんとなく音楽を流してなんとなく考え事をしては何か話してた。何を話していたかまでは覚えていない。そこで流していたのがくるりのロックンロールとhow to goで、だからこの二曲は思い入れが物凄く強い。「裸足のままでゆく 何も見えなくなる 振り返ることなく 天国のドア叩く」という歌詞が、今日のことと繋がっているような気がした。そんな夜だった。

 補完終了。明日も生きよう。